こんにちは、KOです。
今日はちょっと個人的な葛藤を正直に書いてみようと思います。
実はここ最近、AI画像生成ツールで“AI美女”をいくつか作っていました。MidjourneyとStable Diffusionを中心に、夜な夜な「こんな子がいたら面白いかも」と思いついたイメージをプロンプトに打ち込み、生成。
それはもう、美しい。
美しいというより、こちらの想像以上の“理想”が目の前に現れるような、不思議な感覚すらありました。
でも、出来上がったその画像たちは、フォルダにしまったまま。
SNSにもアップしていません。販売なんてもってのほか。
理由はシンプルで、「これ、ほんとうに出していいのか?」という思いが、ずっと引っかかっているからです。
AI美女、その魅力と怖さ。
AI画像生成ツールの進化は目覚ましく、「リアルに見える美しさ」を生み出すのは、今や本当に簡単です。
髪の質感、光の加減、肌の透明感、目の奥にある表情まで、まるで本物の写真のよう。特に“美女”というジャンルは、アルゴリズムと私たち人間の美的感覚がかなり近いところにあるのか、ちょっとプロンプトを工夫するだけで驚くほど完成度の高い画像が出てきます。
でもそれと同時に、「この美しさって、誰のものなんだろう?」という疑問が湧いてきました。
AIが作ったとはいえ、その元には膨大な“人間の顔”のデータがあります。
学習された素材には、誰かの写真や作品が含まれていた可能性もある。
つまり、「完全にオリジナル」とは言い切れないかもしれない。
そしてもうひとつ。
あまりに“完璧”すぎる顔立ちは、私たちが無意識に持つ美の基準をどんどん狭めていく可能性もある気がしています。
理想化されたAI美女を見慣れてしまうと、現実の多様な美しさに鈍感になってしまうかもしれない。
それは、自分自身に対しても、他人に対しても、ちょっと怖い影響です。
「公開しない」という選択。
そんな風に考えているうちに、「これを誰かに見せるのは、ちょっと違うかもしれないな」と思い始めました。
もちろん、AI美女を公開して活動している方を否定したいわけではありません。
そこには創造性やストーリーテリング、世界観の表現があるし、商業的にも成立するジャンルだと思います。
でも、今の自分にとっては、まだその一歩が踏み出せない。
「ただの美しさ」だけで世に出すには、ちょっと気が引ける。
せっかくAIと一緒に創作するなら、もう少し“意味”や“想い”を込めたものにしたい。
たとえばそのキャラクターの物語があるとか、自分自身の経験や視点が反映されたものとか。
今のところ、私の作品たちは、パソコンのフォルダの中で静かに眠っています。
だけどそれは、失敗でも無駄でもなくて、むしろ大切な「問い」をくれた存在なのかもしれません。
創ることの責任と、AI時代のモラル。
AIは便利です。本当に、夢のようなツールです。
でも同時に、「創ることの責任」も、問われるようになってきました。
誰かの感情を傷つけてしまうかもしれない。
誰かの作品を無意識に踏み台にしてしまっているかもしれない。
そして、誰かを不快にさせる意図がなくても、「そこに意識があるかどうか」が問われる時代になっている気がします。
そんな中で、「つくって終わり」で済ませない姿勢って、すごく大事だと思うんです。
何かを表現するというのは、自分を映す鏡でもあるし、誰かと対話する手段でもある。
だからこそ、焦らず、じっくり向き合いたい。
AI美女との付き合い方、模索中。
というわけで、今の私は“AI美女創作期”を静かに過ごしています。
外には出さないけど、自分の中ではたしかに何かが動いている感じがします。
AIと一緒に「美しさとは何か」「創作とは何か」を考える時間。
それも、豊かな体験なんじゃないかなと思っています。
あなたはどう思いますか?
AIが生み出す「美」に、どこまでリアルさや感情を感じますか?
もしAIでキャラクターを作るとしたら、どんな存在を生み出してみたいですか?
よければ、あなたの考えや感覚も、聞かせてくださいね。
それではまた、AIと共に生きる日々の中で。
— KOより
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